ぶとしの日記

ぶとしが生きていて思ったことを綴っていきます。

大久保嘉人選手『情熱を貫く』を読んだ〜その2〜:サッカーの育成年代での意思決定

昨日から引き続き、大久保嘉人選手の『情熱を貫く』を読んでのエントリーです。この本、めちゃ泣けるので、サッカーファンならずともワールドカップの予習を兼ねて読んでみることをおすすめします。

 

情熱を貫く 亡き父との、不屈のサッカー人生
 

 

さて、この本を読んでいて気になった2つ目の点は、育成年代の「意思決定」です。

 

この本の中で、大久保選手が国見高校へ進学したきっかけを綴った場面がでてきます。小学校6年生当時、大久保選手は九州選抜に選ばれていたそうです。そのメンバーで東京遠征をした際に、田嶋幸三さんや加藤久さんらと「面接」をしたというエピソードが出てきます。その面接で中学校の進路選択を尋ねられ、強化部の方から、「国見高校へ行け」というアドバイスをもらったという話です。

 

私は読んでいて、

 

えっ???

 

面接???

 

と思いました。

 

才能溢れる12歳の少年には、日本代表の強化部の方々から進路に関するアドバイスを貰えるというファーストパスがあるのだな、と驚いたのです。

 

これは何も、同じような境遇を見聞きしたことがある方からしたら何ら不思議ではないことかと思います。でも、私にとっては、JFAが小学生段階から進路決定のサポートをしているということ事態が驚きでした。大久保選手は2014年現在で31歳。小学校6年生当時は1994年です。Jリーグがスタートしたのが1993年ですから、その1年後には(もしくはそれよりずっと前から)、育成年代のキャリアパスを考える取り組みがスタートしていたということになります。

 

言うまでもなく、これは、大久保選手の才能が突出していたからこその出来事です。でなければ、北九州選抜に選ばれることも、九州選抜に選ばれることも、東京に行って田嶋幸三さんというビッグネームと面接もすることもありません。才能があったこそチャンスを得た、これは紛れもない事実です。

 

しかし、もし大久保選手が国見高校に行っていなければ、いくら才能があったとしても大久保選手が今の地位まで上り詰めることは難しかったように感じます。事実、ご本人も、「父からのプッシュがなければ国見にはいかなかった。まさかプロサッカー選手になれるとは思っていなかった」と話しています。あれほどの選手であっても、サッカーのうまい人はゴマンといる中で、プロと自分の間の距離感をつかめないものなのだという象徴的なエピソードだと思います。

 

実際、同じ九州とは言え、大久保選手が当時住んでいたのは福岡県。国見高校長崎県ですから、越境入学をせざるを得ない状況でした。小学校6年生が国見高校を知ることもなければ、ましてや、その学校にわざわざ越境してまで行こうとは考えられないのではないかと思います。だからこそ、才能を磨かせるために信頼できる大人のアドバイスが重要になる局面があるのだなぁと、このエピソードを読んでいて感じました。


それにしても、ご両親(お父さん)もよく国見に出すという決断をされたと思います。当時、相当家計が苦しかったそうですから、いくら公立とはいえ、勇気のいる決断だったと思います。いくら他者のアドバイスがあったとはいっても、結局、親や家族が納得しなければ決定を下すことは難しいですから。

とはいえ、気になるのは、同じような境遇で育ってプロにならなかった(なれなかった)方々のその後です。今でこそ、大久保選手の話は美談で語ることができますが、同じような境遇でプロを目指し、挫折したり、やむを得ざる諦めなければならなかった方もたくさんいるはずです。プロの門は狭き門ですから、そっちの方が多数派です。


才能のある少年には小学生で進路決定のサポートをすることは驚きではありましたが、それ以上に、そこから「漏れた」方々が、いつ、どんなことがきっかけで別の進路を歩み始めるのか、そして現在どんなことを生業とされているのか(特筆すべきほど特殊なことをしてるとも思いませんが)、気になるところです。

 

 ではでは。